17800kHzのビルマ向けテスト放送は今日も1200から音楽だけが出ている。しかし1220に停波したがおよそ10分後に再開している。受信状態は良好である。1258に停波した。
1300の「しおかぜ」は6070と7295kHzが良好である。先週並びに昨日と同じ番組が出ている。最近朝鮮労働党幹部で注目されるようになった趙甬元(チョヨンウォン)についての解説。
保衛部事務所襲撃事件について、中朝国境付近で最近起きた事件とされる。日時場所の詳細は明らかにできないが、朝鮮語番組の「富士山はしている」の中で明らかにされた事件である。
在日帰国者による脱北の手記「冷たい豆満江を渡って」の内容の一部が紹介されている。
「やがて飛行機の窓から、懐かしい日本が見えてきました。その前夜、ボタン雪が降る図們を旅たち、氷点下の長春空港を発ってきましたが、眼下の日本には雪がなく、とても暖かそうです。それを見て、なぜかとてもホッとしました。これまでずっと寒風にあたり続けてきたのですから、せめて風だけでも温かく迎えてほしい・・・・そんなことを考えていました。
最初に脱北を試みてから、七年ほどが経っていました。そのあいだ、とにかく北朝鮮から離れて日本の変えることだけが、私の希望でした。そして苦しかった時には、日本に帰った自分を思い浮かべ、日本の土を握りしめて帰ってきたよ!と叫ぶところを想像して、自分を鼓舞していたのです。そしてそれが今、やっと現実になったのです。
成田空港では、民団とNGOの関係者の方々が、私たちを迎えてくれました。そして民団と北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会の方々が、日本で保護をしてくださると仰いました。日本についてからのことが全く分からず、ずっと心配だったのですが、温かく迎えていただいて、膝から力が抜けるほど安心しました。この感謝の気持ちは文字であらわしようがありません。
その様子を見ていた領事館の人はいろいろな団体があなたたちの面倒を見てくれると思いますよ、と言い残し一人で出口に向かっていきました。
日本に帰ったら、何をおいてもまず兄に会わなければと思いました。兄が日本にいなければ、私たちはきっと北朝鮮で餓死していたに違いありません。送金をはじめ、陰に陽に私たちらを支えてくれた兄に、帰国の挨拶をし、官舎に気持ちを伝えなければなりませんでした。ですから、兄に再会できた時の感動は、どんな言葉でも言い表すことができません。しかし同時に、北朝鮮にいた自分たちが、どれだけ兄の、そして兄のご家族の負担になていたか、どれだけ私たちが無理な要求をしていたかが、本当によくわかりました。
わたしが再会したころ、兄はもう高齢で、病気で目が不自由な状態でした。それに、兄の奥様も体を悪くしていました。それでも私たちに、多くの支援をしてくれていたのです。本当に感謝しかありません。
兄は、自分の人生は北朝鮮に帰国した。私たち家族を生かした目にあったようなものだ、と言っていたのを思い出します。兄は朝鮮総連の幹部でした。そのため、自分の子供たちが差別にあったと言っていました。それに、民団に入ったほうが差別は少ないし、商売もしやすいだろうと言われ、自分でもそれはわかっていたと言っていました。
それでも兄が、総連に籍を置き続けていたのは、私たちのためだったのです。親兄弟が帰国しているから、いざというときはこの地位が役に立つんだという、北朝鮮に来たときに言っていた言葉が、今も心に残っています。
こうして、やっと帰ることができた日本ですが、自由のない北朝鮮に長くいたせいか、なかなかなじめないこともありました。たとえば、アパートを借りるのにもいろいろな手続きがあり、強制されてはいなくても守らなくてはいけない。細かい規則や決まりごとがある社会のありかたは、北朝鮮とはまったく違い、正直イライラしたこともありました。
それでもまだ私は、日本で生まれ、日本語が話せます。しかし、子供たちは北朝鮮で生まれ、朝鮮語しか話せず、一から学ぶしかありませんでした。それだけでも、子供たちはもちろん、私にとっても大いに悩むところでした。
しかし一番苦しかったのは、子供たちが北朝鮮出身であることを、なんとなくにせよ、隠していかなければならないことでした。友だちを作るにせよ、就職するにせよ、わざわざ自分で言わないことになり、隠しているような気になってしまうことが、精神的な負担になっていました。
いま私の子供たちは韓国籍に入っています。しかし、韓国の人が子供たちの言葉を聞くと、北野出身だとわかってしまいますし、長く付き合っていれば、日本の人もそれと気づくものです。
北朝鮮出身であることが、恥じることではないことは、理屈ではわかっています、しかし、今のあの国のありさまや、国としての行いを見ていると、堂々とは言いにくい、というのが正直な気持ちです。実は一時期、子供たちは韓国に住んだほうが暮らしやすいのではないかと、真剣に考えたこともありました。言葉で苦労するのを、見ているとつらかったからです。それで、三男たちが韓国へ行って、働いてみたこともあるのですが、観光ならばいいけれで、暮らすことはできないと実感して、帰ってきました。
そのときは、建設現場で働いたそうなのですが、日本よりもはるかに危険で、労働時間が長く、また賃金も少なく保証もなかったそうなのです。
韓国にも、日本から言った帰国者が住んでいます。しかし私は日本で生まれ、日本の言葉を話し、日本の生活の親しんできました。そして、美化されていたとはいえ、日本のすばらしさを、子供たちに言い聞かせてきました。ですから、子供たちと一緒に日本に帰ってきて、本当に良かったと思っています。」
拉致問題に触れている個所もあるが、一読をお勧めしたい。
「救出への道コーナー」は産経新聞から、対北政策についての報道から。
1330の「ふるさとの風」は9455、9705、11875kHzが強力である。日曜日は一週間続いた番組最後の放送日である。今週の一曲、朝鮮語放送は1990年のヒット曲、高野寛の「虹の都へ」。日本語放送は1979年のヒット曲ツイストの「燃えろいい女」である。
1430の「ふるさとの風」は9450と9705kHzが良好である。タシケント送信の11995kHzはキャリアーのみで、音声が出ていない。何ともトラブルの多い送信所である。懐かしい日本の歌は「夕焼け小焼け」である。
拉致問題解説は曽我ミヨシさんについて。1978年8月12日夜、近所に買い物に出掛けたままひとみさん(当時19歳)と共に行方不明になった。日本政府の無策ぶりが露呈した事件で、2002年10月ひとみさんが帰国するまで、拉致されていることさえ分からなかった。その後の調査で在日朝鮮人が関与していることも分かっている、実行犯女性工作員キムミョンスクを2006年11月に逮捕状を得て国際手配、犯人の引き渡しを求めているというが何の解決にも至っていない。
「ふるさとの声」は、曽我ひとみさんから2020年12月新潟県民集会で収録したメッセージである。続いて2019年12月に収録したメッセージ。2019年9月東京で開催された国民大集会で収録したメッセージである。そして2019年3月収録のメッセージが出ている。今日の一曲は無し。この番組は2021年4月10日、22日、5月2日、12日と同じである。
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