ロシアの声は4月13日(月)の放送で幻の初代モスクワ放送アナウンサー「ムヘンシャン」について日本向け放送開始67周年記念日の特別番組として放送した。同じ番組は4月17日に再放送された。
以下は音楽を含め、約30分にわたって放送された内容である。
------------ 音 楽 ------------
4月14日は、日本向けモスクワ放送が始まってから、67周年の記念日に当たっています。日本が、真珠湾攻撃によって、アメリカとの戦いの火ぶたを切った、その翌年、1942年の4月、モスクワからの日本語放送が始まりました。
その時、一体、誰が、また、どう言った人物が、そのテキストを読んだのか、長い間、正確なところは判っていませんでした。
それが、今年の3月の上旬、私どもの元同僚、アナウンサー兼翻訳員として、こちらで働いていて、現在、日本の大学で講師を務める傍ら、研究活動を続けています、島田 顕さんの、地道な活動によって、調査によって、明らかになりました。
きょうの、この番組では「ムヘンシャン」 と呼ばれた、モスクワ放送初代アナウンサーについて、4月11日に、島田顕さんが、私どもに送ってくださった研究資料の一部をリスナーの皆さんにご紹介したいと思います。
本日のご案内は、私、日向寺康雄、演出オペレーターは、イリーナ・チェルヌィフ、放送進行係は、アーラ・ソロビヨーバ、3人のチームでお送りします。
私は、この、ロシアの声、前身はソ連邦国家テレビラジオ委員会、通称モスクワ放送と言いましたが、こちらで働き始めてから、21年と言う年月が過ぎたのですが、岡田嘉子さんを初めとして、様々な先輩のお話から、モスクワ放送の昔のことをよく聴く機会がありました。
初めの頃、翻訳は日本共産党の、かつての指導者のお一人で野坂参三氏のご夫人であった、龍さんが、その頃滞在しておられた当時のゴーリキー通り今のトゥべリツカヤ通りと言いますけれども、そこの中央ホテルの部屋で、この翻訳をなさって、毎日ロシア人の担当者がニュースや解説などのテキストの受渡しのために、中央ホテルまで歩いて、10分ほどの距離だったと言いますが、プーシキン広場にあった、外国向けモスクワ放送の本部から通っていたこと、そんなことも、よく聴かされました。
また、時折は、日本の労働運動家で、コミンテルンの幹部として、日本共産党の結党を指導したといわれている、片山潜氏の娘さん、片山やすさんが、アナウンサーとして、この放送を手伝われたということも聴いておりました。
しかし、初めのアナウンサー、初代のアナウンサーについては、「ムヘンシャン」という奇妙な名前で呼ばれた、九州出身の炭鉱労働者の男性であったということ以外、具体的なこと正確なことは、まったく分かっておりませんでした。
岡田嘉子さんは、1948年、この、「ムヘンシャン」の強い薦めもあって、モスクワ放送のアナウンサーとして働き出したと、仰っていました。ムヘンシャンは、自分には九州訛りあるので、岡田嘉子さんのような、有名な女優さんが、アナウンサーとして働いてくれたら、どんなに素晴らしいだろう、そう、言ったそうです。
まぁ、この奇妙な名前、アダナなんでけれど、ムヘンシャンというのは、ロシア語の「ムーハ」ハエから来る言葉で、そこに、日本語の「さん」が訛った、「シャン」を加えたもので、彼は、この男性は、自分のことを、そう読んでいたそうなんですけれども、まぁ、当時は、スターリン時代、本名を明かさずに、お互い、本名を名乗らずに、働くことも、よくあったということです。放送局の資料でも、それ以上のことは、何も判りませんでした。それが、島田顕さんの、誠意に満ちた調査のおかげで、ある程度まで、分かってきました。
島田さんは元々、「国際共産主義運動」 が専門で、共産主義世界の建設を夢見て、ソ連邦に世界中から集まった人々について、研究活動を続けていました。昨年の8月、島田さんが、アメリカのワシントンの歴史文書保管所で目を通した資料の中に、「ムヘンシャン」という言葉を見つけ、これがきっかけとなって、モスクワの旧マルクス・レーニン主義研究所、今の現代歴史文書アーカイブス保管所に幾つか資料が残っていることを突き止め、今年3月、モスクワを訪れた折に、忙しい合間を縫って、「ムヘンシャン」 のデータを入手してくれました。
------------ 音楽・「私のモスクワ」 ------------
こちらはロシアの声、ただいま特別番組「幻の初代モスクワ放送アナウンサー「ムヘンシャン」を送りしています。私どもの同僚でありました島田さんが、アーカイブで入手した情報によりますと、「ムヘンシャン」は、本名「おがたしげおみ」さんと仰います。
「オガタ」 の 「おがた」という字は、俳優の緒形拳さんと同じ 「緒形」 です。そして、「しげおみ」の方ですけれども、「重い」という字に、大臣の「じん」を書きます。この、緒形重臣さんが、私どもモスクワ放送の初代アナウンサーでありました。
緒形さんは1896年、福岡県田川郡で、お生まれになりました。地方自治体職員の家庭のお子さんで、お父さんは旅館を経営していたということです。また日本共産党員ではありませんでした。他の党にも属したことはありません。1914年まで、日本の初等学校で学び、18歳まで中等農業学校で勉強して、1914年から17年まで、つまり18歳から21歳まで、炭鉱労働者、荷役労働者、雑役夫として働いていました。
1921年に、歩兵予備役として登録されています。その後、ウラジオストック航路も含めて、遠洋航海の船に乗り込み、様々な日本の船の中で、ボイラーマン、荷役労働者として働き、船員たちのストライキにも、何度も参加しました。
そして、1929年に、負っていた借金から解放されると、学習の機会と可能性を得るために、それまで働いていた船から脱出して、ウラジオストックの 「国際クラブ」 に残ったそうです。この、ウラジオストックでは、日本人労働者の間での労働組合の路線に沿って活動し、1932年に、日本人労働者の間での活動のため、カムチャッカに赴きました。ここまでが、緒形さんの、モスクワに来る以前の経歴です。それでは音楽の休憩を挟みましょう。
------------ 音 楽・「道」 ------------
このほど明らかになりました、モスクワ放送日本語課初代アナウンサー「ムヘンシャン」こと緒形重臣氏の経歴を続けてご紹介します。緒形さんは、1933年から35年まで、「クート」で、東洋勤労者共産大学、あるいは「東方少数民族共産主義大学」とも訳されますが、こちらの学生になりました。この、「クートで」 というのは、当時、ソ連に存在していた、共産主義者養成機関で、革命家の養成塾といった感があり、世界中から共産主義社会の建設を夢見る若者たちを集めて、彼らを教育し、また世界中へと送り出していました。
1930年代のソ連には、数万人規模で、政治亡命者がおり、日本人も100人近くいたと推測されています。しかし、現実のソ連は、スターリンによる、厳しい粛清の直中にありました。
1936年から37年、内務人民委員会の資料によりますと、田中氏、かんじょう氏が逮捕されたのをきっかけに、ムヘンシャン、こと、緒形重臣さんは、自分もスパイと疑われているようだと感じ、迫害と逮捕の恐怖を経験しました。
1938年の1月には、岡田嘉子さんと、演出家で共産主義者の杉本良吉氏が、サハリンを越境して、ソ連邦に亡命しますが、スパイとして逮捕され、翌39年、最高裁の判決によって、10月、杉本氏は銃殺、岡田嘉子さんは10年のラーゲリ、収容所送りとなります。
一方、ムヘンシャン、緒形氏は、この恐怖の時代を、何とか生き抜きます。1938年の末まで、民族植民地問題科学研究所に在籍した後、1939年から1940年まで、「革命の火花」という名前を持つ印刷所の植字工として働き、1941年から42年までは外国語文献出版所の日本語編集部の校正係を務めました。そして、いよいよ、1942年から、ソ連国家ラジオ委員会日本語課のアナウンサーとなったのでした。
------------ 音楽・「偶然のワルツ」 ------------
きょうは、4月14日が、私ども、ロシアの声、前身、モスクワ放送の日本向け放送開始67周年にあたるのに因みまして、「幻の初代日本語アナウンサー ムヘンシャン」 について、私どもの元同僚、島田顕さんが調査し、明らかにしてくれた、新たな情報を、これは、4月11日に、Eメールでいただいたものなんですけれども、それを取り急ぎまとめてお伝えしました。
ムヘンシャン、こと、緒形重臣氏は、岡田嘉子さんが私に話したことによりますと、先生が、岡田嘉子さんが働き始めて、1948年ですが、まもなく姿を見なくなったということです。先生のお話では、おそらく、ムヘンシャンさんは日本に帰国したのではないかということでした。まぁ、この時期、粛清が、先ず、なかったと思いますし、逮捕される理由もなかったので、と言いますのは、緒形さんの、当局の、彼に対する評価は、政治的思想の発展程度は弱いという評価はあったものの、誠実な働き手として、肯定的な評価を得ていました。
私も、ムヘンシャンさんは、緒形さんは、日本に無事に戻り、故郷で、きっと、モスクワ放送を聴いていた、そう考えたいと思います。兎に角、正確なお名前を、リスナーの皆さんに、きょう、お伝えできただけでも、ソ連邦崩壊後18年という歳月が流れたわけですけれども、この国が開かれた成果である、と考えています。
最後に、改めて、地道な調査を続けてくれました、島田顕さんに、心から感謝申し上げます。「さすが、われらが島田先生」です。ボリショイ・スパシーバ。
それでは、この番組のお終いは、緒形重臣さんも、きっと、きっとですね、強く、深く愛されたと思う、ロシアの草原、ロシアの自然を唄いました 「ルースカヤ・ポーレ」 という歌、ドミトリー ・プドロフスキーの歌声で、きょうは、この番組を締めくくりたいと思います。
こちらは、ロシアの声、モスクワからの日本語放送です。
以上が4月17日に再放送された番組からの聞き取り。過去モスクワ放送は50,60、65周年とこういった開局特番を出している。岡田嘉子さんについては過去、幾度となく放送されている。