60年前の9月26日、土曜日の夕方から風雨が激しくなり停電。すでに名鉄・国鉄も運休、唯一市営バスが動いていたのを記憶している。バスを降り、懐中電灯の明かりを頼りに、一時間以上歩いて帰宅したのを覚えている。
名古屋港の貯木場から高潮で流れ出した巨大な丸太で破壊された家屋が多く、犠牲者が多く出た。台風災害で5000人以上の死者を出したのはこの台風15号だけかも。
避難所も救援物資もない時代、ボランティアという言葉すらなかった。それでもお互い助け合い生き延びてきた。救援活動をしたために職場を追われた人が出た時代、今では考えられないことだった。
停電など日常茶飯事のこと、復旧が遅いと言って文句を言う今とは大違いである。近鉄名古屋線は大阪線と同じ標準軌道に(新幹線と同じ幅)して大阪までの直通運転が可能となった。
今のように事前に台風情報などある時代ではなかった。ラジオで「気象通報」という番組があったのを記憶している。「鬱陵島、南南西の風、風量3、晴れ、気圧1013ミリバール、・・・」と言うものである。
これを機に2年後、気象観測の重要性から、富士山頂に気象レーダーが設置され、その後の台風観測に威力を発揮することになった。それも、今や気象衛星にとって代わり、驚くほどの精度で天気予報が出されている。
1999年まで35年間富士山頂で活躍したドームは道の駅富士吉田に「富士山レーダードーム館」として見ることができる。