54年前とは打って変わり快晴の9月26日である。その日、日没とともに風雨が強くなり帰宅の足を奪われた。途中市バスの終着まで、当時一般的だったボンネットバスの後部バンパーに乗って窓にしがみ付いていたのを思い出す。
今のように情報過多な時代ではなく、ただ風雨の収まるのを待つだけだった。この日は土曜日、明るくなりあたり一面まさに海、角材や瓦礫が一面に浮かんでいた。すべての交通は不通、荷台が大きな自転車で出社したが水没個所が多く、10㎞を3時間以上もかかった。
当時まだ名古屋市ではなかった地域だが都市ガスが供給されていた。電気は一向に復旧しなかったが、ガスだけは早くから使える様になった。
5千人を超す犠牲者を出した台風は後にも先にもこの伊勢湾台風しかない。今は台風の発生からすぐに情報過多、ちょっと降れば観測史上最高、異常気象と大騒ぎしている。54年前の雨量は観測していなかったことになる。
伊勢湾台風をきっかけにラジオでも気象通報ではなく天気予報が放送されるようになった。白黒TVがようやく普及し始めた年でもある。鉄道で大きく変わったのが近鉄名古屋線、国鉄と同じゲージを標準軌道(新幹線と同じ)にして直通運転が可能になった。
中学校時代の恩師が、台風直後から被災した生徒たちと救援活動をしたことから、教師の職を奪われるという事件も起きた。ボランティアという言葉もなかった時代、教師がみっともないことするなということだった。今では考えられないことだ、今も昔も体質は変わっていないようだ。
今年は白水小学校児童1700人分の作文のことが話題にもなっている。貴重な体験談だが、名前が書いてあるということでこれまで一部教師が見るだけで封印されてきた。名前だけ伏せて冊子にすれば何も問題はないと思われるが要するに余分なことはやりたくないといわんばかり。某氏によればたとえ名前を伏せても本人の承諾が得られないので、個人情報保護な観点から公開はできないそうだ。ホンマカイナ。