あれから48年が経った。もうすっかり忘れ去られてしまう歳月でもある。1959年昭和34年9月26日土曜日のことである。夕方には既に路面電車も止まり名鉄電車も、交通機関で動いていたのは市バスだけ。そのバスも超満員、後ろのバンパーに乗って終点まで、そこから先は既に暴風雨が吹き荒れ真っ暗、会社から持ち帰った懐中電灯がどれほど役立ったことか、今でもこの日のことは鮮明に覚えている。
今みたいに救援物資がないとか住む場所がないとかそんな生易しい状態ではなかった。水のないところが避難場所だった。
これをきっかけにラジオ・テレビで、今では当たり前の天気予報が放送されるようになった。この半世紀、これ以上の災害は起きていないし、今後も起きる事はないだろう。そう願わずにはいられない。
Posted by Hiroshi at 15:58│
Comments(3)
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番外編
忘れてました。
読ませていただき、記憶がよみがえってきました。
長くなるので、私も記事書きました。
一週間後に名鉄電車が開通、毎朝遺体の山を見ながらの出勤でした。
近鉄は半年は普通だったようです。これを機会に名古屋中川間が、広軌になり難波までの直通運転が可能に。
当時小学校5年でした。
茅葺き屋根の母屋は茅の間から雨が逆流し、家中雨漏りでとてもおられる状況ではなく、その屋根に松の大木が倒れかかり一晩中家がギシギシ鳴っていました。途中で離れに避難し、停電で使えなくなったラジオの代わりに私のゲルマラジオでオヤジが台風情報を聞いていたのを覚えています。
朝起きたら今工場のある場所に有った納屋が完全につぶれていました。