
2002年10月15日、私は24年ぶりに日本に帰国した。1978年7月31日、帰省していた新潟県柏崎市の海岸で恋人(現在の妻、祐木子)と突如拉致され、日常を奪われ続けてから、再び故郷の地に足を踏み入れる日が来るのか、期待することを自らに禁じていた。
出発前から、それはあくまで日朝間の交渉過程における一時帰国である、と言い聞かされていた。拉致の当事国、しかし両親が日本人であることも知らせてこなかった子供たちが残されている北朝鮮に戻るのか。生まれ育った日本にとどまり子供たちを待つのか。この決断をめぐる葛藤の中で、私の背中を押してくれた言葉があった、
「日本に戻ったら、そのまま日本で暮らすべきだよ」
これは日本に発つ数日前、北朝鮮のある人にかけられた一言だった。私は驚き、わが耳を疑った。なぜなら北朝鮮の人たちは、我々拉致被害者たちは機密保持のため、必ずや北朝鮮に戻らなければならないと考えていると思っていたからだ。私自身、20年余りにわたってマインドコントロールされていたため、北朝鮮当局の意図に背くことはできないと思っていたし、当然、北朝鮮に残る子供の元へ戻る以外に道はないと思っていた。しかしこの人が漏らした一言は、凝り固まっていた私の心に「北朝鮮に帰らないという選択肢もあるんだよ」ということを気づかせてくれた。そしてこの気づきが最終的に私が日本の残って子供を待つという決断を強く後押ししてくれた。
考えた見ればあまりにも当然のことだった。本人の意思とは関係なく他国に拉致された身で、再び母国に帰れる機会が生じたなら、そのまま母国に残って暮らすのが当たり前であり、自然である。ただ、当時の私からは、人間としてのあたりまえの選択肢が、いつからか消え去っていた。というより心の奥深くに埋もれていた。しかし、彼の一言が、そんな私の目を覚ましてくれた。本当に人間らしい一言だった。
これとは対照的に、北朝鮮によって拉致された私を含む日本人拉致被害者が受けた処遇は、すべてが異常で、非人間的だった。拉致行為そのものはもちろん、拉致の目的、目的達成のためのプロセス、目的達成がかなわくなった時の対応すべてが計画性のないものだった。私自身を例に挙げよう。当初の目的は、工作員に仕立て上げるというものだったが、これは失敗に終わる。拉致被害者が何人か逃亡したことで断念する程度の思い付きの計画だったのだ。そして、工作員がダメなら北朝鮮工作員への語学教育係、それもうまくいかなのなら翻訳作業を、という方針転換。行き当たりばったりだった。
明確な国家戦略があっての拉致作戦ではなかったといわざるを得ない。とにかくまずはさらってこいという、拉致ありきの計画だった。本人の意思に反して拉致してきた人間を工作員に仕立て上げ、命までかけて活動させようとする行為の根底には、ひずんだ全能感があった。このような、独裁者の全能感と自己満足のために、24年間も自由を奪われたと思うと、怒りとともに、虚しさと情けが込み上げてくる。全能感の極致は、北朝鮮当局が拉致の事実は認めつつも、何ら根拠のないまま8人死亡と宣言し、拉致問題は解決済みだと言い張っていることだ。それもすでに公然の秘密と化している拉致問題の全貌を覆い隠すためだった。これが日本に通用すると彼らは考えていたのだ。他方で、24年間の北朝鮮生活を振り返るにあたり、一こと伝えておきたいのは、これから述べる日本人拉致という重層的な人権侵害行為は、すべて北朝鮮一般市民の知りえないところで一握りの指導層によって企てられ、敢行されたという事実である。北朝鮮の国民を指導部と同一視するのは適切ではない。
この書は、拉致という国家的犯罪行為に翻弄され、いまなお北朝鮮に囚われの身になっている日本人拉致彼我者たちへの思いを胸に、その救出のために拉致事件の本質について、私の知りえたが義理を述べたものである。
救出への道コーナーは増元輝明さんから、
日本政府からご家族の声は増元るみ子さんへ、お姉さん平野文子さんからのメッセージが出ている。2020年6月の収録である。
1330お1430の「ふるさとの風」は同じ番組が出ている。「ふるさとの風ニュース」は5月24日、家族会、救う会、拉致議連等主催の「全拉致被害者の即時一括帰国を求める国民大集会」が開催され、出席した横田早紀江さんの発言が出ている。
ふるさとの唱歌コーナーは「ドレミの歌」である。
今週の一曲は1971年のヒット曲、欧陽菲菲の「雨の御堂筋」である。
1405の6145kHzは若干同波の混信が確認できるが、完全につぶされている。7295kHzも強力である。この時間は開始と終了に「しおかぜ」のアナウンスが出ており、番組は先週1330に放送された「ふるさとの風」である。